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なぜ立川は北口と南口で街の成り立ちが違うのか

立川駅の北口と南口で異なる街並み。軍用地の一括返還と農地からの個別的な市街化という土地の来歴から、道幅や街区の違いを考える。

立川駅を境に広い道路と大きな街区、細い路地と小さな街区を対比した街並み

立川駅の北口と南口では、街の景観が大きく異なる。ただし「北が新しく、南が古い」という捉え方は正確ではない。南口側の錦町も1930年時点では桑畑が広がっていた。両者の本質的な違いは、土地の来歴とその配分方法にある。北側は広大な軍用地が1977年に一括返還され、計画的に配分されたのに対し、南側は小さな土地が個別に市街化を重ねてきた。この来歴の差は、現在の道幅や街区の規模の違いと整合する。

北側:軍の土地が、一度に戻ってきた

北側の歴史は、ほぼ一つの土地の歴史である。

立川駅北側の土地の来歴。
年できごと
1922年陸軍飛行第五連隊が立川飛行場に移駐。立川が軍事都市になる
1945年敗戦により米軍が接収。米軍立川基地となる
1977年11月30日米軍立川基地が日本側に全面返還
1979年11月昭和天皇御在位五十年記念事業として、国営公園の設置が閣議決定
1980年公園事業に着手
1983年10月国営昭和記念公園 第一期開園
2014年IKEA立川 開業
2015年ららぽーと立川立飛 開業
2020年4月GREEN SPRINGS 開業(立川駅北側 約3.9万平方メートル)

北側の転換点となったのは、1977年11月30日の米軍立川基地の全面返還である。駅北側に広がっていた広大な基地が一括して日本側へ返還され、その跡地は東部・中央部・西部の3地区に分けて計画的に配分された。

地区用途
東部立川広域防災基地。陸上自衛隊立川駐屯地のほか、海上保安庁・警視庁・東京消防庁などの施設
中央部国営昭和記念公園
西部その他の用途

広大な土地が一括して返還され、行政が用途を定めて計画配分した経緯は、現在の北口に見られる整然とした大街区、広い道路、大型施設の目立つ景観と整合する。ただし、この土地利用の枠組みが現在の景観を決定づけたと直接証明する資料までは確認できておらず、景観の成り立ちを考える背景の一つと捉えられる。

南側:小さな土地が、個別に積み重なった

一方の南側には、北側のような一括返還された広大な土地はない。駅周辺を中心に、個別の土地がそれぞれの時期と事情に応じて市街化されていった。

南側も最初から街だったわけではない。錦町に関しては、1930年時点でも「桑畑だった」という記述が残っており、もとは農地が広がっていた場所である。

南側で確認できる主なできごと。
年できごと
1925年頃
/1927年
/1930年
錦町に三業地が成立(3説あり)。1930年の記述では当時は桑畑
1944年1月赤線地帯へ転換
1945年9月〜米軍進駐にともない、米兵向けの地帯となる
1958年2月26日廃業。業者は主にバーや酒場へ転業

南側の街は、軍需から米軍進駐、そして戦後の転業という時代の変遷の中で、個々の建物や区画が個別に用途を変えながら形成されてきた。北側のような行政による一括返還と一体的な計画配分の経緯は確認できない。

現在の南口に見られる、細い路地や小さな区画、個人商店や飲食店が密集した景観は、こうした個別的な用途変更の積み重ねと整合している。ただし、個別の変化がどのように現在の街並みへと集約されていったかを直接裏付ける資料までは確認できていない。

北口と南口の主な違い

北側(曙町・緑町ほか)南側(錦町ほか)
土地の来歴軍用地 → 米軍基地 → 1977年に一括返還農地 → 市街化 → 個別に用途変更
一括返還・計画配分あり(1977年)確認できない
配分の主体行政が3地区に分けて計画配分個別の地権者・事業者
街区・道大きい・広い小さい・細い
主な施設公園、防災基地、大型商業施設商店街、飲食店、場外馬券売場
建物の年代1980年代以降が中心混在

「北は新しく南は古い」では説明できないこと

土地の来歴を整理すると、「北口が新しく、南口が古い」という通説では見落とされがちな事実が明確になる。

  • 南側もかつては農地だった:1930年時点の錦町は桑畑であり、最初から市街地だったわけではない。
  • 北側は「開発が遅れた」のではなく「使えなかった」:1977年まで米軍基地として占有されていたため、一般の開発が進まない状態が続いていた。
  • 北側の新しさは返還のタイミングに起因する:1977年に返還され、1983年に昭和記念公園が開園し、2010年代以降に商業施設が入った。約半世紀分の開発が返還後に圧縮して進んだ結果である。

したがって、両側の差を考えるうえで本質的な要因は、時間の長さではなく「土地が誰のものとして管理されてきたか」という点にあると考えられる。

飲食店の密集と赤線跡の関連について

「南側に飲食店が多いのは赤線があったからだ」とする説もあるが、1958年の廃業後に業者が主にバーや酒場へ転業した記録はあるものの、その店々が現在の商店街へどのように継承されたかを裏付ける資料は確認できていない。時系列として前後して存在することと、直接の因果関係があることとは区別して捉える必要がある。

まとめ

  • 北側は1922年から1977年まで軍用地(日本陸軍および米軍基地)として使われ、1977年11月30日に一括返還された後、東部・中央部・西部の3地区に計画配分された。
  • 中央部には国営昭和記念公園(1983年10月 第一期開園)が整備され、以後 IKEA立川(2014年)、ららぽーと立川立飛(2015年)、GREEN SPRINGS(2020年)などの大規模開発が続いた。
  • 南側は1930年時点で桑畑であり、北側のような一括返還や一括計画配分の経緯は確認できず、個別に市街化と用途変更が積み重なった。
  • この土地利用の差は、北の大きな街区・広い道路と南の細かい街区・細街路という現在の景観と整合している(ただし景観形成の因果関係を直接裏付ける資料までは確認されていない)。
  • したがって「北が新しく南が古い」という単純な時間差ではなく、「基地として使われた広大な土地の一括返還」と「農地からの個別的・段階的な市街化」という土地の来歴の差が、街並みの違いを考える手がかりになる。
出典
  1. 米軍立川基地の全面返還(1977年11月30日)に関する報道 二次
  2. 国営昭和記念公園の設置経緯(1979年11月閣議決定、1980年着手、1983年10月第一期開園)および基地跡地の3地区区分 二次
  3. 錦町の三業地成立および1930年の「桑畑」に関する記述 二次(原典未確認)
  4. GREEN SPRINGS ほか立川駅北側の開発に関する公表資料 二次